プロテスタント日本宣教150年/163年
ずっと前、女友達とふたりで、シーズンオフの静かな沖縄を旅しました。
私は戦後生まれで、戦争は知りませんが、沖縄には戦争の爪痕が確かに残っていることを感じました。
今、米軍の基地問題で、沖縄の住民の方々の気持ちを思うことが多くなりましたね。
ちょど娘も学校の授業で、沖縄をテーマにプレゼンの練習をしています。
今日、朝日新聞でこんな記事を読みました。
思想史家・武田清子氏の連載「私の収獲」から「沖縄に来た宣教師」。
2009年は、日本のプロテスタント宣教150年として、様々なイベントや集会がもたれました。
ところが、「沖縄では宣教163年だ。日本の教会が150年というのは、沖縄切り捨ての差別だ」という批判があるということです。
そういえば教会史の講義で学んだ記憶がありますが、英国教会の宣教師ベッテルハイムは1846年に琉球で伝道を始め、2009年は宣教163年になるということです。
「日本の教会は宣教150年と163年の両方を尊重する歴史認識を持つべきではないだろうか」
武田氏は、こう記されています。
私たちは、知っているつもりが本当は知らないことがあることに気づかなければならないと思いました。
たまたま今日読んでいた斎藤孝氏の『地アタマを鍛える知的勉強法』にも、ソクラテスの「無知の知」について書かれた文章がありました。
学びに必要なことのひとつは謙虚さなのでしょう。
また、武田氏は、ジョナサン・ゴーブルについても簡潔に紹介されています。
獄中で改心したゴーブルは、東洋伝道を志し、米バプテスト教会に日本宣教を申し出るが、前歴故に認められない。
そこでペリー艦隊の海兵に志願して、「黒船」に乗って日本をめざす。
那覇に寄港した際、先のベッテルハイムにアドバイスをもらったのだそうです。
このゴーブルという人は、一度日本に来たものの滞在を許されず、その後、再度来日、母国からの支援もない中で、獄中で学んだ革靴作りで生活を支えて伝道を続けたといいます。
私たちは、歴史を学ぶ中で、このような人たちの犠牲の上に今があることをもっともっと知っていかなければならないと思いました。
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