義務と権利と愛
まだコスモスの花がわずかに咲き残っているかと思えば、お店のディスプレイはもうクリスマス。
心にも冷たい風が吹き込んでくる今日この頃、「○○さんは教会員の義務を果たしているのですか?」
毎週のように耳に入ってきたこの言葉が何か心に刺さっています。
もちろん、どのような状況で、何を指して、どのような声の調子で言われたかによって意味は全く違ってくるのですが。
キリスト教には、目に見えない普遍的な教会と、実際に人が集まっている地域の教会があります。
地域の教会はこの世の経済や社会の枠組みの中で運営しているので、「教会員」という制度があり、規則があるのは当然です。
では、義務とは何だろう?と思いました。
礼拝に出席すること、奉仕をすること、献金をすること。
そうでしょうね。でもそれは同時に権利、というより特権でもあります。
そして、権利として見たとき、与えられているものは人によって異なるのではないかと思うのです。
私も以前は、毎朝4時に起きて聖書を読み、祈り、学びをして、熱があっても礼拝は休まず(どころか一日3回礼拝に出席し)、毎週(どころかほぼ毎日)教会に行って奉仕し、自分の生活レベル以上にささげていたし、それが当たり前で、喜びでもありました。
受付や掃除の奉仕者が少ない? だったら奉仕についての学びをしたらいいんじゃないか、と単純に考えもしました。
でも今さら気がついたことは、誰もが全く同じ条件を与えられているのではないということ。
教会に通うために何時間も電車に乗ったり、歩いたり、家族に気を遣わなくてはならなかったり、本当に収入が少なかったりする中で、その人は精一杯のことをしているかもしれない。
教会に行けないという寂しさ、孤独に耐えながら、皆のためにひとり祈っているかもしれない。
教会に通える人が、通えない人を指して「あの人は教会に来ない」と言う。
通えない人は「教会に行きたい、でも行けない」のかもしれない。
「来る」と「行く」では立っている場所が違います。
「来る、来ない」と言える人は恵まれているのです。
模範的な教会生活を送れる人はそのことをただ感謝すればよいのだと、ようやく気がつきました。
そう考えると「義務を果たしているのか?」という問いは、他人に向けるものではなく、自己吟味のためにあるのではないかと思います。
どうせ人は外見で判断することしかできないのだから。
むしろ本当の義務とは、「神を愛すること、きょうだいを愛すること」ではなかったでしょうか。
「愛しているか?」
これは人を指さして問いただすより、まず自分のこころに問うことが必要なのでしょう。
容易じゃないですが。
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