貧困の光景
最近、文庫化された『貧困の光景』(曾野綾子著)を読んでいます。
「日本人」「日本の貧困」についての著者のものの言い方には共感できない部分はあります。
しかし、実際に様々な場所に出向き、歩き、暑さ寒さを体験し、人々とふれあったナマのことばは実感にあふれ、説得力があります。
こんなくだりがあります。
有名なNGOの中には、常に新聞のニュース種になるような被災地の援助に駆けつけるところがある。貧困や悲惨は普通恒常的に続いているものだから、自分たちのNGOはここをやると決めていたら、あわててスポットライトを浴びた津波の救援に乗り換えなくてもいいだろうに、と思うが、どうしても目先のニュースに動かされるのである。
継続して持ち場の支援をやっていればいいという理由は簡単で、私たちは世界中の人をすべて救うことはできない。スマトラの津波の被害者と、悲惨な傷つけ合い方をした内戦後のシエラレオーネの農村の人々と、どちらを救っても、私たちには限りある力を使ったというだけでしかないのだから同じだというほかはない。
本気で支援を考え始めると、自分たちが取り組もうとしている問題の宇宙的な大きさというか、果てしなさというか、あまりにも自分が非力であることを思い知らされ、呆然としてしまいます。
だから、目先のニュースに乗っかるのは、楽なのです。深く考える必要がない。
しかも、新しいニュースを見ながら、その都度、「自分にできること」、つまり一時的に、自分が痛まない範囲で募金に協力すればよい・・・無意識にそのような思いが自分の中にもあったのではないか、と思いました。
みんなが知っている悲惨に対して「よいことをした」という自己満足は得られます。
最初から世界中の人を救うことはできない、というリアリズムに立って、「継続して持ち場の支援を」することは、難しいようだけれども、必要だし、本当はそれしかできないのだと思います。
また、物資支援について、こんなエピソードが書かれています。
私は木箱の中を見て驚いた。そこには山のように服が詰め込まれていたが、貧しい少女にとって着心地のいいような実質的な服-Tシャツとか木綿のブラウスとかジーパンとかウールのカーディガンとか-はほんの僅かだった。木箱の中身は女性用のスーツや子どものパーティードレスなどが信じられないほど多かった。日本人は難民救済に、自分の要らないものを捨てる代わりに送り出したのだ。自分の家でも始末に困るようなものを救援物資にすれば、厄介払いができる上に、何か人道的なことをしたような気分にもなれる。」
これは私も経験があります。
救世軍の衣類支援の手伝いをしていたときのこと、何袋もの衣類が集まった。でも、中を確認すると、これでは差し上げる相手に失礼ではないかと思うものが多かった。中には、犬の敷物にしていたのではないかと疑われるような、犬の毛まみれで、鼻をつままずにはいられないほど異臭のするセーターなどもありました。せっかくだが、ゴミに出させてもらいました。
「だから日本人は・・・」と言ってはいけないけれど、相手の顔が見えなくても、人として尊重することを忘れてはならないと教えられます。
もうひとつ、ブラジルの田舎町での話。
豊かな人ほど、貧しい人には恵まない。
単純に、自分のものを貧しい人に恵むということを限りなく続ければ、自分自身が貧しくなる。
むやみに恵まないから富豪でいられるのかもしれませんね。
飛躍しますが、イエス・キリストは、人として歩み、徹底的に与え、徹底的に貧しくなられました。
それを知る人は、ほんとうにその足跡に従えるのでしょう。
我々凡人は、日常生活の中でそのように生きることは難しいけれど、自分の限界を知りつつ、また自己欺瞞に陥ることなく、貧困の事実に目を向けて行かなくてはならないと思います。
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- 受けるより与えるほうが幸い