礼拝を守る
前にも書いたことがあるのですが、「礼拝を守る」という表現が、昨日、学びの中で話題になりました。
多くの教会、クリスチャンが、当たり前に使っていることばなんだろうと思いますが、考えてみれば不思議な言い回し。
「安息日を守る」というは旧約の時代の律法です。
英語では keep the Sabbath でしょうか。
keepを使うのは、ほかにkeep the Law(律法を守る), keep the Ten Commandments(十戒を守る) とありますが、礼拝にkeepが付くのを聞いたことがありません。
日本語では「礼拝厳守」などというのもあります。
ますますはっきりしています。
日本では、礼拝はクリスチャンが守るべき律法なのでしょうか。
「礼拝を守る」という日本語は、次の2種類の源から出てきたのではないかと想像されます。
1.旧約聖書の律法から
「 あなたがたは、わたしの安息日を守り、わたしの聖所を恐れなければならない。」
レビ19:30
「 あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、【主】が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、【主】は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。」
申命記5:15
2.新約聖書から
「ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。あなたがたは、各種の日と月と季節と年とを守っています。」
ガラテヤ4:9-10
注解には、「ユダヤ教の祭儀である安息日、断食日、新月、過越の祭、七年ごとの安息年を指す」と書いてありました。(いのちのことば社の注解付き聖書)
どちらも「守る」のは、安息日であり、律法です。
結局、日本には、礼拝は守るべき律法だという意識があるようです。
さて、そこでどういう話になったかということですが、私は以前、とても律法主義的なクリスチャンでしたから、その反動で「礼拝を守る」ということばに抵抗がある、と告白しました。
すると、もうひとりの方が同意されて、「私は礼拝に招かれて来ている。決められて守るというのは違う」と言われました。
単なることばの問題と言ってしまえばそれまでですが、「ことばが思想を、意志を、姿勢を作る」という趣旨のお話でした。
ああ、そうか、と思いました。
律法を守る意識で礼拝に出席するのと、招かれ、喜んで礼拝しに来るのとでは、結果が違うはず。
このようなメッセージがよく聞かれます。
「次のことを守れば、恵まれます。
1.聖書を読みなさい
2.祈りなさい
3.礼拝厳守
4.十分の一献金をしなさい」
間違いではないと思います。これらを救いの条件にしているわけではありません。
でも、「しなければ」という思いで何かをして、ほんとうに恵まれるのだろうか、という疑問があります。
自己満足や高ぶりのほうが成長しそうで、私は怖いです。
「~すれば恵まれる」ではなくて、「正しく恵みを受けていれば、聖書を読み、祈り、礼拝し、ささげることができる」のです。
自分が何をしているかより、どのような状態であるか、doingよりbeing 、行いによらない信仰に成長したいと思いました。
- いけにけ、祭司、万民祭司
- 信仰はどこに