いけにけ、祭司、万民祭司
個人的な通読でレビ記に入り、つまらないことを考えてしまいました。
まず、いけにえをささげるというのは、経済的な負担というだけでなくて、とてもつらいことだったのではないかということです。
口蹄疫の流行で酪農家の方々がつらい思いをされていることを報道によって見たり聞いたりするのですが、単に財産を失うというだけでなく、大切に育てたいのちを処分しなければならないつらさ、悲しさは想像を絶するものだと思います。
いけにえの場合も、自分で育てたものには限りませんが、まだ子どもの牛や羊、鳥の雛など、そんなかわいらしい生き物を、自分の罪の身代わりに殺すことは、当時の人にとっても事務的に処理できる作業ではなかったのではないでしょうか。
そのような背景があってこそ、キリストの身代わりの重さもわかるような気がしました。
もうひとつは、祭司の仕事はたいへんだったろうなあということです。
エリートといえばエリートですが、聖書が祭司に求めたものは重く大きい仕事でした。
宗教改革以降、万人祭司という考え方で、すべてのクリスチャンは祭司であると教えられます。
「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」
1ペテロ2:9
しかし、我が身を振り返ると、どうも自覚が薄いと言わざるを得ません。
万人祭司という意味ではすべてのクリスチャンに与えられている「神のみわざを宣べ伝える」という役割を遠慮したり、忘れたふりをしてしまう。
「牧師=祭司」的雰囲気の教会もあるのは事実ですが、牧師の役割、信徒の役割について、まだまだ私は理解が足りないし、意識が低いと反省しています。
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