十字架を負う
イエスさまが少年時代を過ごされたガリラヤ地方は、ローマ帝国の支配下にある地域として、悲惨な歴史を持っていました。
ナザレの町から、わずか5~6キロのところに、セフォリスという都市があり、ここでは何度か反乱が起き、町が焼き払われ、人々が虐殺され、2000人が街道沿いで十字架刑になったことがあったそうです。(この年代は資料によりばらばらで、私は詳しく調べていないのでわかりませんが、紀元前後です。)
ですから、イエスさまも、ガリラヤ出身の弟子たちにとっても、十字架というのは、私たちが考える以上にリアルで、恐ろしいものだったことでしょう。
ルカ9:23に、イエスさまが言われたことばが記されています。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」
誰に向かって言われたのかというと、マタイ16:24では「弟子たちに」、マルコ8:34では「群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに」、ルカ9:23では「彼らに」となっており、そのような場面が何度かあったのかもしれませんが、総合すると、弟子たちを含むおおぜいの人々が対象だったのではないかと思います。
いずれにしても、これは、私にも向けられたことばです。
自分の十字架とは何だろう、今朝も考えさせられました。
ところで、十字架を「日々」負うようにと言っているのは、ルカの福音書だけです。
「日々負うべき十字架」とは、一生に一度、ヒロイックな行動を起こすことではなく、私にとっては、地味な日常の中での、堕落に向かいたがる自分との戦いかもしれません。
- 絵本への憧れ
- 必要な力を与えられるように