成長すること(2)
いのちのことば社から出ている「牧会ジャーナル」2009年秋号は、前号に続き、「人を育て、共に育つ」がテーマです。
その中で、小さないのちを守る会代表の水谷潔先生が書かれた記事がおもしろかった。
タイトルは「本当は怖い共育放棄の医学」。タイトルからしてパロディです。
症例を3つ挙げていて、その福島瑞穂氏ばりのネーミングが笑えます。
1.げんこつ山牧師 (だっこして、おんぶして、また来週)
2.見ざる、聞かざる、言うだけ牧師
3.オレオレ牧師 (すべて自分の許可と責任でやらないと気が済まない)
いずれも、牧師と信徒、つまり教会全体が「共に育つ」という視点を失っているケースです。
何がおかしいのかと考えると、そういった状況をいつかどこかで体験したり、見聞きしたりしてきたものの、はっきりと指摘することがはばかられたり、あえて考えないようにしてきたことに対して、ずばり名前を付けてしまったところなのかなと思います。
そうなると、単純に笑っている場合でもないか、という気にもなります。
オレオレ牧師のところにこんな文章がありました。
こうした教会では教育が一方的になるのは必然で、さらに悪いことには、信仰的自立と主体的責任に向けての教育がなされないことも。
・・・(中略)・・・
多くの場合、そこには「信徒が成長しないから責任分担ができないと主張する牧師と、牧師が責任分担をさせないように信徒を育てていると見抜いてしまう信徒」というある意味、滑稽な構図が生まれます。自立を目標としない育児が「飼育」に過ぎないように、信徒を自立に向かわせぬ教育は、成熟した信徒からは「愚民政策」と評価されても仕方ないでしょう。残念ながら「牧師が信徒の成長を願っていない」という理由で教会を移動する成熟度の高い信徒を時々お見受けします。
実は怖い話ですね。
しかしながら、思うのですが、日本の教会というのは、地理的条件とか教会の建物といった物理的条件にかなり制限を受けることが多いのです。
電車に乗ればいくらでも教会が見つかるような都会と、選択肢がない地方都市や農村部では、かなり違います。
つまり、たとえば、地方では、「牧師が信徒の成長を願っていない」という理由で教会を移動するのは難しい。
それでもあえて外に出る人と、残って働きかけていこうとする人と、あきらめて日曜クリスチャンで通す人と、そもそも成長する必要を感じない人に分類される。
結果として、共育のない教会だって、(ある程度)それなりにやっていけます。
成長したくない人が優勢になったまま、必要な奉仕は少数派の成長したい人が担いつつ、全体としては同好会やサロン的に維持発展することもあり、です。
本当に怖い話です。
とは言っても、成長させてくださるのは神様だし、決して見捨てられることはないというのが私たちの信仰です。
どんな教会にも、福音が語られる限り、希望はある。
ちなみに、水谷先生のブログにはさらに多くの牧師類型分析とネーミングが記されています。
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