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A Ray of Hope

なぜ論理的思考ではダメなのか

「論理的である」とか「筋が通っている」ということは大切だと私は思っていました。
ところが論理が通じない相手がいるのも確かで、どれだけがんばっても話が噛み合わないまま関係は悪化します。
「なぜ?」「どうすれば?」と何年も考え続けてきたものです。

そんな疑問解決へのヒントを教えてくれた本が『論より詭弁 ―反論理的思考のすすめ―』(香西秀信 著)でした。

著者によれば、論理的思考は「論者間の人間関係を考慮の埒外において成立しているように見える・・・あるいは・・・対等の人間関係というものを前提として成り立っているように思える・・・だが、われわれが議論するほとんどの場において、われわれと相手との人間関係は対等ではない。われわれは大抵の場合、偏った力関係の中で議論する。そうした議論においては、真空状態で純粋培養された論理的思考力は十分には機能しない。」

「詭弁」という言葉にはあまり良いイメージはありません。
しかし、「詭弁とは、自分に反対する意見のこと」であり、「勢力のない側の意見のみが詭弁として非難される」というのです。
詭弁OK、論点をすり替えて何が悪い…目から鱗です。

そうかー。対等でない関係にあっては必ずしも論理が通用するわけではないのか。

難しく感じるところもありますが、電車の中で読んだりするとひとりでニヤニヤしてしまいそうな楽しい文章でした。

「人に訴える議論」として、聖書からいくつか例が挙げられています。

【その1】
ある安息日のこと、食事をするために、あるパリサイ派のかしらの家にはいって行かれたが、人々はイエスの様子をうかがっていた。するとそこに、水腫をわずらっている人が、みまえにいた。イエスは律法学者やパリサイ人たちにむかって言われた、「安息日に人をいやすのは、正しいことかどうか」。彼らは黙っていた。そこでイエスはその人に手を置いていやしてやり、そしてお帰しになった。それから彼らに言われた、「あなたがたのうちで、自分のむすこか牛が井戸に落ち込んだなら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」。彼らはこれに対して返す言葉がなかった。(口語訳 ルカ14:1-6)

【その2】
イエスはオリブ山に行かれた。朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、 「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。 モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。(口語訳 ヨハネ8:1-9)

論理的に考えれば、これは詭弁であり、論点のすり替えではないか、というわけです。

ちなみに、私は著者と直接の知り合いではありませんが、大学では後輩にあたり、同じ時期に在学して、同じ先生方の講義を受けていたと思われます。
生成文法理論の一派と創始者ノーム・チョムスキーをチクリと刺すような表現があったりして、おバカな学生であった私には理解できなかった(今も同じですが…)ものの、ちょっと懐かしい気持ちになりました。


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