配慮の問題
昨日の礼拝では、1コリント8章から、「知識と愛」「配慮」について考えさせられました。
地上の教会は、同じ神を神として礼拝しているのだから、ある意味ではどこも同じ。
でも、実際には、建物やプログラムや人の雰囲気はかなり違います。
何がいいとか悪いとかいう問題ではないのでしょうが、「配慮」という面から考えると、いつも注意を向ける必要があるのではないかと思います。
長くその教会にいる人は慣れてしまっているので居心地がよいかもしれませんが、初めて来た人、ほかの教会から来た人にとっては、どうもなじめない、居心地が悪いと感じることがあるものです。
でも、普通の人は遠慮して何も言わずに、結局、定着できない、そういうことは確かにあります。
悲しいことに、教会の側では最後まで気がつかないんですね。
ずっと前に「百万人の福音」で「教会のお客さん」というエッセイのシリーズがあって、なるほどーと思うことがたくさんありました。
今刊行中のMinistryという雑誌でも、八木谷涼子さんが教会の外からの視点で書いていることが参考になると思います。
というより、参考にしようという気持ちがなくてはいけないんではないかと思うくらいです。
サイト上では<「万年教会新来者」の声>で読めます。
(勝手にリンクさせていただいています)
特に、電話の受け方や受付、看板のことなど共感できます。
電話に出るとき、「はい、教会です」というの、実際にありますね。
普通の会社やお店で働いて電話を受けた経験のない人なのかもしれません。
礼拝後の自己紹介タイムもそう。
初めて来た人が、自分だけ自己紹介をさせられるというのはどうなんでしょう。
私は、看板が目立たないことに困ったことがあります。
何にせよ、配慮は、愛から出るものであると同時に、想像力や感性の問題とも言えます。
自分は知っている、わかっていると思うことは、ただの高ぶりなのかもしれないと考えるくらいの謙虚さを持つように心がけたいと思います。
「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。 人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。」
1コリント8:2-3
ちなみに八木谷さんの著書のひとつは、これ。
- ビジネス書もどき?
- 先生と呼ばれてはいけません