先生と呼ばれてはいけません
仕事の関係でその一部を読んでいた聖書解釈学の本に、気になるところがありました。
今の文化にどのように適用するかという話題で、次の聖句を取り上げています。
「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。」マタイ23:8
アメリカで出版されたものなので、アメリカの文化を念頭に置いているのだと思いますが、確かに英語のteacherは、人に呼びかける尊称にはならないような・・・。
ということで、この聖句はそのまま守られているわけです。
一方、日本では、「先生」は一般的な尊称であり、呼びかけるのに便利なことばです。
教師だけでなく、~師という肩書きの人、そして政治家、作家、漫画家、書家・・・「家」の付く人はみな先生なのかと思えば、農家は必ずしも先生と呼ばれるようでもなく、むずかしいところですね。
いずれにしても日本では、牧師も伝道師もCS教師も「先生」です。
では、日本ではマタイ23:8をどのように考えればよいのでしょう。
牧師をしているある知人(日本人)は、自分のことを「先生」と呼ばせません。
根拠はこの聖書箇所。
アメリカでも教育を受けた人なので、そのような考え方が身についているのかもしれません。
加藤常昭先生(!)は、日本の「先生」は「世話をする人」を指すというようなことをおっしゃっています。
「世話をする」=「仕える」と考えれば、まあいいのかなあ・・・
しかし、この本にも書かれていますが、大切なのは、形式をどうするかではなく、「先生と呼ばれてはいけない」と言われるときの真の意味を考えることです。
「先生」と呼ばれると偉くなった気がするし、いつも「先生」と呼ばれるのに慣れている人は、「先生」と呼ばれないと失礼だと感じるでしょう。
「先生」であれ、他のことばであれ、何かの尊称で呼ばれるときに自尊心をくすぐられ、それを快く感じて、もっともっと・・・と高ぶりの罪に陥ってしまうことの危険性に注意せよということなのだと思います。
しかも、この本では、「先生」だけでなく、「博士」などの称号もやたらに使わないほうがよいと勧めています。
名刺や名札に書く必要もない。
もっともですね。
日本は肩書き社会だと言われますが、肩書きではなく、人が人として、同等の立場で神さまの前に立てたら、教会も神学校も、社会も変わるでしょうか。
Culture and Biblical Hermeneutics: Interpreting and Applying the Authoritative Word in a Relativistic Age
- 配慮の問題
- 教会と慶弔