配慮、もうひとつ
配慮についてもうひとつ。
教会に慣れていない方への配慮が、どのようになされたらよいのか、よくわからないことがあります。
「seeker-sensitiveな教会が、man-centeredになりがちだ」という意見を聞いて、なるほどと思ったのは、人々のニーズに合わせて教会の活動を展開し、教会で語られるメッセージがまでもが、「罪」「悔い改め」などの厳しいことばを避けて、「愛」や「恵み」ばかりになったのでは、全く「人中心」だということです。
この種の「人中心」は、正しい配慮ではないでしょう。
私は戦後の時代のことを知りませんが、「特別伝道集会という看板を見て、そこでメッセージを聞いて救われた」という体験談をうかがうことがあります。
その時代は、「特別伝道集会」が日本人のニーズに合っていたのだと思います。
今は、「特別伝道集会」と大書したところに集まってくる人はあまりいないようです。
伝道集会というと、表向きには「伝道」ということばを使わず、趣味や娯楽を看板に人を集めます。
それが今の日本人のニーズだと考えるからです。
私も長年、そうやってたくさんのコンサートや「~教室」という「伝道集会」を企画し、奉仕してきました。
教会では、集会に何人集まったから何人に伝道できた、そんなニュアンスで語られますが、実際には、ほとんどの人が趣味、娯楽以上に信仰に近づくことがありませんでした。
「神のことばを語る」ということを前面に出さないで人を集めている以上は、集まった人にたっぷり説教をするのも難しいでしょう。
ある意味で、人中心の伝道プログラムが内包する矛盾でしょう。
しかし、毎週の礼拝における配慮はまた違う問題だと思います。
意味と形、福音と文化という観点から考えて、聖書のことば、救いについてははっきりと語るけれども、文化的な面では、玄関をきれいにしておくとか、受付をわかりやすくするとか、一般の人が知らない教会用語を多用しすぎないとか、まだまだいくらでも配慮できるところはありそうです。
せっかく特別な伝道イベントで初めて教会に足を運んだ人が、日曜日の礼拝に来てみて、文化的な面でつまづいてしまうのはもったいないことです。
とはいえ、言うは易く・・・で、私自身、配慮に欠けて、つまづきを与えたことがあるに違いありません。
ただ、礼拝をもっと大切にしたいと思います。
礼拝の空気がよどんでいたら、いくらイベントをやっても教会に定着することはありません。
教会に集まるクリスチャンたちが、喜びを持って礼拝しているということが伝道の第一歩かもしれません。
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