悲しみとあきらめ
Ⅱ列王記4章
子どもが授からないという悲しみを抱え、あきらめていた女性に、子どもが与えられる。
ところが、子どもが大きくなった頃、突然、病で死んでしまう。
幸福の絶頂から絶望と悲しみのどん底へ。
彼女は、預言者エリシャのもとへ向かいます。
結局、エリシャは、その死んだ子どもをよみがえらせ、ここではハッピーエンドになっています。
しかし、現実には、あきらめずに祈り続けていても、必ずそのとおりに願いがかなうとは限りません。
神さま、どうしてですか! そう叫ばずにいられないことがあります。
悲しいこと、つらいことがなければどんなによいかと思います。
でもそれは、私たちが悲しいと感じる、つらいと感じる、そのような心を持っているからです。
もしその心がなかったとしたら、喜びを感じることもないでしょう。
「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」(ローマ12:15)は、感受性を持たない人には意味がありません。
人が悲しみも喜びも感じることができなかったら、家庭も社会も機能しないでしょう。
この地上に生きている間は、どんな慰めも役に立たないほどの悲しみを感じることがあると思います。
そのことに無理に意味づけをして納得しようとすることもあるし、逃げようとすることもあります。
私などは、一生、そうやってじたばた生きていくかもしれません。
そんな中で、「あきらめずに祈り続ける」というのは、この地上のことだけに一喜一憂している自分に気づきながら、「永遠」を求めていくことか、と思いました。
地上のいのちは必ず終わりを迎え、必ず悲しい別れがあります。
「永遠」がなかったら、悲しいままで終わりです。
今、悲しみの深みにある人が、慰められ、やがて立ち上がれるように祈ります。
- 神の平安と自分の願い
- 目が開かれるように