希望
今日の礼拝で読まれたのはペテロの手紙第一1章3-9節。
来た、と思いました。
生きることから降りたい、と願っていた私を今日まで生かしてきたのが、このペテロの手紙にある「生ける望み」(living hope)だったからであり、自分の原点として、苦しいときいつも読み返す箇所であり、この一週間もこのことばに支えられてきたからです。
今日の説教では、「生きる望み」と「生ける望み」は違う、ということを教えられました。
生きる目的、生きるための望みを求めて教会に来て、それを得ることができても、それだけでは信仰生活は続かない。
「生ける望み」(生きている望み)とは、イエスの復活によって実現された永遠の相続であり、確かな約束。
それは、今の自分の生活から目を離させ、天に目を向けさせる。
私たちは患難を避けるために救われたのではない。
神を喜ぶ特権、そして試練を喜ぶ特権が与えられている。
この最後の、試練を喜ぶ、試練の中で喜ぶ、というのが、正直なところ、まだ私には受け入れがたく感じているのですが・・・。
前にも書きましたが、「希望学」を研究されている方たちがあります。
社会という面から見た、ひとりひとりの人生の希望です。
つい先週発行された『希望のつくり方』(岩波新書)、期待どおりのよい本です。
希望は与えられるものではない、つくり出すものだ、という主張に、カタいクリスチャンの人は反発を覚えるかもしれませんが、これは「生きる望み」と「生ける望み」の違いです。
おもしろいと思ったことのひとつは、キリスト教と仏教の希望についての考え方の違いについて書かれている箇所です。
キリスト教のほうは、聖書のいくつかの文章をあげて、キリスト教がいかに希望を大切にしているかを説明しています。
希望こそがキリスト教の教えの中心だとも言えるのに対して、仏教では、希望を捨てる、希望を持たない境地に達することで幸せになることを求めるというのです。
今は「捨てる」「持たない」が流行っていますが、実際のところ、希望を持たずに静かな心で生きられるようになるのは、なかなか難しいのではないでしょうか。
(やってみたことがありますが、煩悩が多すぎてくじけました。)
いずれにしても人間にとって、いかに希望が大切なものであるか、という証しであるということです。
困難な状況の中でこそ、希望は生まれる。
なるほど、そうなんですね。
「生きる望み」はみんなでつくり出す、「生ける望み」は感謝して、ただでいただく、それがいいのではないでしょうか。
- 目覚まし
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