みじめで、哀れで、貧しい自分
貧困、戦争と平和、環境問題、生物多様性・・・すべて分離することのできない世界規模の緊急課題です。
でも、自分のことで精一杯の私たちには、何となく遠い話のように感じられるというのが正直なところではないでしょうか。
あるときは忙しく、あるときは楽しく、でも飢える心配もなく日々を過ごしていると、世界の現実など知らなくても少しも不自由はしません。
日本の教会も、特に福音派の教会は、社会に目を向けることが少なかったと思います。
救いはたましいの問題であって、衣食住の問題ではない・・・。
ローザンヌ世界宣教会議では、富と貧困というテーマでも様々な提案や報告がされたようです。
そのひとつ Wealth, Poverty and Power – The Hole in our Gospel
Author: Richard Stearns
http://conversation.lausanne.org/en/conversations/detail/11545
The churches in the more prosperous northern hemisphere, in particular, need to return to the gospel of Christ. That gospel is not just about individual salvation, but a life transformation that results in compassion, service and a striving for justice.
15分のスピーチの中で、黙示録3:15-17も引用されました。
「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。
このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。
あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。・・・」
ラオデキヤの教会に対して語られたことばです。
最後に、国連ミレニアム開発目標(MDGs)を例に挙げて、実現できるかどうかは、私たちにかかっていると結んでいます。
国連ミレニアム開発目標について、京都新聞 2010年09月24日の社説は、わかりやすく書かれています。
http://www.kyoto-np.co.jp/info/syasetsu/20100924.html
日本の新聞でもこのような報道や意見が増えてきているようですが、インターネットでは、さらに多くの情報が発信されています。
COP15の現実 (The Climate Game and the World’s Poor)
http://www.iied.org/climate-change/media/climate-game-and-worlds-poor-documentary-film-inside-cop15-climate-change-summi
何も知らない、何も知ろうとしていない自分に気がついてがっかりします。
さらに、正しいと思っても「実行できない」自分をも認めざるを得ません。
HFIでは、月3,500円の支援で、フィリピンのひとりの子どもが学校に通い、心身の健康と社会性において成長するようにケアされ、福音に触れる機会を与えられます。
でも、もし、私に35,000円あるいは70,000円の余裕があったとして、10人、20人のフィリピンの子どもが教育を受けられるように支援するか、それとも自分の子どもを学習塾に通わせるか、そういう選択を迫られたらどうするだろう・・・。
わかっていてもできないのが人間です。
世界の貧困がなくならないのは、分け与えることができない私たちの性質によるところも大きいと思います。
ザアカイが自分の財産の半分を貧しい人に与える、と宣言したこと(ルカ19章)を読んで、私たちは神さまの救いはすばらしいと言うのですが、その救いのすばらしさは、どうも自分の生活には無関係なままです。
自分の財産の半分を人にあげることのできる人はそう多くないはず。
わずかに持っていたレプタ銅貨2枚をささげた女性(ルカ21章)について、私たちもすべてをささげて従いましょう、と言いますが、「私たちの生活費は別」なのです。
「実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」
まずは、貧しい自分の現実を知るところから。
次に、そんな自分が、あわれみをいただいて、どう生きるかを考えること、なのかなと今は思います。
- だから、もう一度挑戦する
- 望みの預言